出張報告

平山 恵

 

▼出張期間

2005年10月29日より2005年11月3日まで

▼出張先
中国 河南省
▼研究テーマ
中国社会変動における村落と家族
▼調査の内容

1958年から1962年に中国でおこった飢餓の中で、人々がどのように対応していたかを探るために、関係者のインタビューを試行した。
特に、この時期に農村に住み、他の村人の死を垣間見、自身は生き残った人々を中心とした家計図を出発点とした聞き取り方法で過去を振り返ってもらい証言を取る方法を採用した。 光山県寨河鎮張?孜村では77歳の女性を中心として聞き取りから「人災」と言える飢餓の様子が以下の通り伺えた。


1、1958年から鍋などの回収があり、各家庭に調理器具が消え、人民公社の食堂(台所)で生産小隊ごとに食事を作るようになった。飢えていても食料を規定どおり納めなければ、「打倒白旗挿紅旗」といって納めない家の前に白旗が立てられるのを恐れて食料を拠出せざるを得なかった。共産党書記と共産党青年(同盟)書記が先頭にたって暴力的な収奪をおこなった。食事の配給量は属性による点数方式が取られた。成人男性10点、未婚成人女性8点、既婚成人女性6点、高校生6点、中学生4点、小学生1、2点を満点とする労働生産性で決められた。


2.1959年当時、人民公社から配給の米と野草を混ぜおかゆのようにして食べた。糠があればいいほうであった。畑から収穫前の作物を「盗み」その場で食べた。盗んだものが共産党幹部に見つかった場合は暴力を振るわれるので、その場で食べた、残ったものは地中に埋めるなどして隠した。人民公社の倉庫からは,稀に盗むこともあった。


3.この生産小体の人口は約70人で、その内6人が餓死した。生産大体幹部で餓死した人はいない。餓死した内の3人は20代の兄弟でそれぞれ10数日間隔で死亡した。2人の嫁は死亡前に村を出た。残りの嫁も死亡後村を出た。兄弟の父親は竹を編んで現金収入があり,食堂の知人から食べ物を得ていた。なぜこの兄弟は死亡したかという質問に対して「老実」(おとなし過ぎるという意)であったからという回答であった。つまり盗めばよかったのに「ben」(“どじ” “あほ” “要領が悪い”)であり、したたかさがなかったから生き延びれなかったという。父親や嫁が生き残り、20台の男性が3人も死んでいることが不可解で、今後更に調査する必要がある。


4.生き残ったこの家族の構成(77歳の女性の子)を年齢・性で順に書き出したところ、子供は@58F、A54M、B(死亡)C50M、D48M、E43M,F4 2M、G40F、H38F、I36F<数字は十二支の聞き取りから導出した2005年度の満年齢 Fは女性、Mは男性>で、1959年当時3歳だった第5子とまた生まれていなかった第6子の出産間隔が他と比べ長く5年の間隔があることも気になる。


 今回は数人の村人からしか聞き取りができなかった。同じような方法で、丁寧な聞き取り調査を複数の生き残った人々から聞き取り、話をつなげていけば、どのようにして飢餓という人災が起こったが社会史として記録され得る。
 11月1日は同行の孫所員授の故郷、回郭鎮でも同じようにエピソードの聞き取りができるか下見に赴いた。ちょうど孫所員の父も飢饉を体験したということで、孫所員が後日、聞き取ることになった。
 11月3日は社会科学院の徐進氏に今後の調査協力の要請に赴き、少なくとも日本でのシンポジウムにご協力頂ける事を承諾頂いた。

▼発表予定の論文・著書等

2006年3月13日に開催される国際学部付属研究所主催のシンポジウムで今回のエピソードテーキングを中心とした社会調査について発表する。