● 趣 旨 ●
J.K.ガルブレイスの『ゆたかな社会』(1958年)以来、豊かさについての議論は度々繰り返されてきた。ガルブレイスはそこで、生産の増大を絶対視する「自由主義者」に反対し、生産の拡大をもって社会の進歩を計るという考え方を批判して、60年代のアメリカに大きな影響を与えた。しかしアメリカではその後、彼の影響力は急速に衰え、GNPやGDPを指標とする物質主義的な「豊かさ」概念が経済社会の主流となっていった。更に80年代のレーガン・サッチャー時代以降、徹底した自由競争による市場経済を世界全体に拡大しようとするグローバリゼーションが世界的な風潮となり、金とモノの量をモノサシとする単純な「豊かさ」概念が幅を利かせているように見える。
日本ではどうだろう。戦後60余年の日本の社会意識の特徴として、「豊かさ」という言葉への特別のこだわりを挙げることができるだろう。自国のGNPに示される経済成長率に人々は強い関心を抱いてきた。それは、「経済成長」や「豊かさ」そのものがひとつのイデオロギーであったことを示しているだろう。
こうした「豊かさ」というイデオロギーとそれに支えられた経済成長主義への反省や批判がなかったわけではない。例えば、いわゆるバブル経済も終わりに近づいた頃に出版された暉峻淑子の『豊かさとは何か』は、共に敗戦国として戦後の復興を成し遂げて、資本主義的な先進国となった旧西ドイツと日本を対比しながら、金持ちで「豊か」なはずの日本社会が抱え込んだ「貧しさ」を描き出してみせた。「北」の「豊かさ」が、「南」の国々の「貧しさ」という犠牲の上に成り立っているという道義的な批判も繰り返し展開された。また、伝統社会や先住民文化の視点から、先進国の物質主義を批判したり、対抗文化を対置する試みも続けられてきた。
その後もますますアメリカ主導のグローバル経済競争の波にのみ込まれてゆく日本では、政府も財界も相変わらずの経済成長路線を堅持し、マスコミも物質主義的な価値観に基づく消費をあおり立てているように見える。だがその一方で、「豊かさ」を追求する経済成長主義が、社会にも自然環境にもますます深刻な影響を及ぼしていることが明らかになっている。「豊かさ」イデオロギーの超克は、これまでにも増して切実な課題となっていると思われる。
さて、本年度の明治学院大学公開講座では、半世紀にわたって繰り広げられた「豊かさ」をめぐる議論を振り返ってみたい。そして、様々な分野から気鋭の論者を招き、これまでの議論にはなかった新しい視点をも付け加えながら、改めて「豊かさ」イデオロギーへの批判を展開していただきたいと思う。
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